医師、鎌田 實さんの記事。

以下抜粋(3月15日 (火) 07時18分付)



当たり前に生活していないと、
不安に負けてしまう。

みんなでこの国を防衛しないといけない。

経済活動を停めたり、
あるいはティッシュを買い占めたりと
過剰な行動にでるのではなく、

当たり前の生活をし、
物資がほかの人にもいきわたるように
考えるべきだ。
 
計画停電により、電車が止まったり、
本数が少なくなっているが、

こんなときに経済活動を停滞させる方向に
すすめるようなことはやめたほうがいい。

むしろ、電車や工場に電力を送り、
東京より西側の経済を停滞させないことと、

それに国民が理解を示すことが
大事なのではないか。

そして、西側の地域は、
東北、関東の被災した地域の復興を
支援していく必要がある。

そういう意味では、
政府や東京電力、原子力安全・保安院の
腑抜けた対応を批判してきたが、

これだけの状況が起きてきた今では、
ふだん決して使わない
「がんばれ」という言葉を使いたい。

がんばれ、政府。
がんばれ、東京電力。

これまで批判してきたのは、
この国を守るために
しっかりしてもらいたいからである。

日本だけでなく
地球環境を守るため、
彼らにがんばってもらうしかない。

渾身の力をこめて、
ぜったいに負けないでほしい。

応援している。

*抜粋終わり



3-15---

一番最初に実害を及ぼすのは、
パニック・混乱だと思われる…

発電所内だけでなく、
危険の残る被災地で
活動にあたっている方々へ、

感謝と無事をお祈りして、
生活を続けます。


南魚沼市も明日から
計画停電が始まる予定で、

放射線測定ポストも
設置されたとか。

(震源地の方の痛みには、
とうてい及ばないけれど)

ちょっとずつ皆で痛み分け。
皆でやると大きい。



ほんとにそうだなぁ。



新潟県立歴史博物館(長岡市)の
企画展のシンポジウムと
展示のレポートを。

*レジュメや会場のボードから一部引用。

チラシ

【布のいのちと美 展山崎光子コレクションのまなざし

*21日(月・祝)が最終日。

3-15

会場に入ってすぐ、
ご自由に着て下さい、のボロ

3-15*

山に生えている藤ツルを糸にして
織り上げる藤布。

漁村では仕事着として
年間通して重宝されました。

◎村上市沿岸部では
 昔から行われていた
 製塩と繋がりが深い。

    ↓

 山へ焚き付けの木
(小楢などの雑木・塩木と呼んだ)
 を取りにいく際に、

〔藪をこいでも引っかからず切れず〕さらに、

〔夏は涼しく、べとつかず、冬の雪はさらりと落と〕した。

3-15**

↑藤布の織り機。

◎日露戦争が始まる頃まで、
 船乗りが漁に出る際には
 ほとんどの人が着ていた。

◎山の木を使いすぎるというので
 塩焼きは18世紀末に中止されたものの、
 藤布は織られ続けた。

    ↓

 山裾には耕作地が少なく、
 山へ行けば材料の藤には事欠かず、

 あえて麻を生産することも
 なかったのだろう。

3-15***

◎江戸時代に普及した木綿も、
 綿が育たなかった東北地方では
 古布でも貴重品で、

 北前船が着古した木綿地を
 遠くから運んで来た。

 タテ糸に藤糸、
 ヨコ糸にクサ(古手木綿を裂いたもの)と
 藤糸を交互に織り込んだものを用い、

〔クサオツヅレ〕と呼ばれる
 裂き織り布を織った。

これは防寒着で、オシャレ着。


◎時代によって、

 帆船の帆布を再利用した
〔ワタオツヅレ〕(昭和・戦中 戦後)、

 藤糸を芯にして
 役場から払い下げられた古紙を
 巻き付けて横糸に用いた
 カラフルな
〔カミオツヅレ〕(昭和)

 などが作られている。

3-15+++


★山崎氏のまとめの言葉。

【新たな素材を得てつくられた
カミオツヅレやクサオツヅレには、

防寒という機能を越えた、
非日常な遊び心も、垣間見られる。

これらの、女の生活に
根ざした美的表現は、

各地域の民族服飾にも
共通するものであり、

それが、
地域の民族服飾を産み、
支え、停滞残存させ、

それぞれの衣文化領域を
形成していったのではないだろうか。

長い年月をかけて、
慈しみ育まれてきた民族服飾は、

近代化の荒波によって瞬く間に
押し流されてしまった。

しかし、民族服飾は、
古着の循環型再利用、
廃物利用などに見られるように、

現代社会に示唆するものを、
内在させているのでは
ないだろうか】

3-15++

循環型再利用の美!
実際こんなシャツがあったら、
むしろ着たいです…



本日は主に藤布のこと。

昭和30年代まで
実用されていたことが
素晴らしい。

日を分けてあと1回、書きます。



ギャラリー沙蔵さんの
閉店後に長居して、
偏よりトークm(_ _)m 

3-15++++

写真集【墟】を持ってる方(←私の本棚にもある)と、

城や寺社仏閣を愛する方。
(頭がリアルちょんまげ。
運転免許証が偽物にしか見えない)

廃道、隧道、古城、廃屋、廃線など、
(心霊スポット以外)集団で巡ってみたい。

3-15-

埋め木が可愛いテーブル。
床の間だったそうな。

3-15+++++

可愛い対の、狛ニャンコ。

ひな壇の一番上に飾るそうで、
…居ましたっけ。



メモ。



【一宮神社・農具市(節季市)に関する聞き取り】

(*昭和4年生まれ・城内集落・男性)

大里の農具市の日は、
3月12日と決まっていて、

その日は十二講(じゅうにこう)とも
呼ばれました。

3-19-

★2/15に「若木むかえ」といって、
 山へ入り水草の木の枝を伐採した。

 3/11の晩に雪の台を作り、
 そこに枝を刺した。

★秋のうちから切っておいた竹に、
 なった縄ヒモを張り、弓を作る。

 3/12の朝一番、まだ薄暗いうちに、
 雪の上に作った的に向かって、
 集中して竹の矢を射る。

 次に空へ向かって、
 以下の歌を歌いながら、
 もう一度矢を放った。

♪天上(てんじょ)っくり 山っ栗

 天竺(天神かも知れない)の やすがべべ(女性器の隠語だそうな)

 すってんとん(我が家の父と母は、すととんとん、と覚えていた)

3-15-+

★このあと、城内集落から片道3時間半、
 一宮神社へ歩いていった。

★1枚30銭のきれいな多色刷りの
 絵紙(えがみ:着飾った女性の絵が描かれていたそうだ)を
 各人が買って帰り、

 村へ戻ってから
 集会場所に張り出して、

 誰々の買ってきた絵はいいなとか、
 品評会をして楽しんだ。

(この賑やかな集まりが十二講?)

※これは戦前の話です。
 戦後には、とんとやらなくなったとか。

3-15-+-+

父と母が同じ歌を知ってたのが、びっくり。
鳥追いの歌だと勘違いしていたようです。

検索してみると、
小出町出身の方の記録が。

♪テッチョウクリカナックリ、
 烏のメダクダマに当たるように、
 スットントンガトン

↑両親の覚えていた歌詞は
 こちらに近いかな。