父と手塩さんの散歩。
本日も晴天なり。
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紙とペン。
マウスとキーボードより
安心できる触り心地。
頭の中にあるものが、
肌を通して、
ノートの上に落ちてくる。
人によってはそれが
ミシンや針や、走ることや。
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83歳のお婆ちゃんの話。
アメリカとの戦争が始まったとき、
女学校の木の廊下で、
私たちも頑張りましょうね、
勝たなくちゃ、敵国はオニよ!と
若々しく盛り上がった。
女学校は当初1クラスが
40人程だったのに、
疎開してくる人が増えて
50人くらいになった。
出征したワカモノたちが
英霊となって戻ってくると、
六日町の八幡神社で
合同の慰霊祭を行った。
学校からは代表して
4年生が参列したのだけれど、
いつも歌った歌がある。
♪海ゆかば、みずく(水浮く?) かばね(屍)
山ゆかば、草むす かばね(屍)
おおきみ(天皇)の、
へ(辺り)にこそ(ためにこそ)
死なめ(死になさい)
かえり見はせじ(ふりかえることなく)
~♪
(書き取りしながら、正直、
怖い歌詞だと思った…)
しっかりとしたメロディーで。
何度も歌ったから、
はっきり覚えていると言う。
だけれど、戦後に歌ったことは
ないそうだ(65年以上ぶり!)。
教育の大切さを(恐ろしさも)、
つくづく感じると言う。
軍国少女は戦後教育になじみ、
終戦の翌年には花嫁となった。
物の全くない時代だったから、
嫁入り道具にパラソル(と、ハイカラな
言い方をお母様はされていたそう)が
ないのは不便だろうと、
どこかでお米と交換して、
傘を手に入れてくれた。
そんな大正生まれの
お母様の遺した品も、
お婆ちゃんの青春時代の着物と
一緒にやってきた。
記憶は、歌にも依る。
流れ出す瞬間に立ち会って、
引き取る布たちを
どんな風に活かしてゆこう。
今はまだ、純粋に素材として
作り手さんに手渡してる。だけ。
おまけで頂いた、母校の記念誌。
灰色のじゅずの実は
昔はそこいら中にあって、
十六玉と呼んでたとか。
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12年に1度の大祭、
卯年祭りが来年に迫って、
お知らせが届き始めました。
*クリックで拡大します。
中之島地区は4月からスタート。
12年前の様子は宝林寺さんで
写真集を見せていただきました。
撮影に行きたいなぁ…
でも、ゴールデンウイークだ…
早川地区は8月です。
雲洞地区も同時期で、
そちらの規模はかなり
大きいらしい。
なかなか遭遇できない
お祭りなので(なんせ卯年だけ…)、
見る価値アリです。
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お正月の色。
近所のお婆ちゃんが、
あれが豆柿の木だよ、と教えてくれた。
ご近所に何本も生えているのに
知らなかったのです。
(今は渋柿ばかりだから)
青いうちに収穫して潰してから
水と一緒に樽の中につけておくと、
数ヶ月後には柿渋が完成します。