買い出しで聞き取りの昔話。

古道具たち。

3-3-6

写真の消え去った店内…

◎Aux champs de…

 Ferme la porte... 扉を閉じる


この旅は、無事に終点まで辿り着き、
すでにhomeに帰ってきている。
さみしいけれど。

次の旅には、慣れたものだって、
少し置いてゆこう。身軽が一番。

空いた隙間に、新しいものとか
お土産を詰め込みましょう。



旅のアルバムはまだ続きますが…
思い出を残す作業は大切!

◎my life is my art

メキシコへの扉




3-3-1

大きな片口。
おいしいものを入れたい。


3-3-2

お盆も少し。


3-3-4

昭和26年新調の黒板です。


3-3-3

古道具屋らしい?
取り合わせ。

枡のフチが金属で
補強されているのはうつくしい。


3-3-5

こんな感じに使えます。

古いものと現代もの。
意外と、仲良し。



3-3-7

閉店後に買いだしへ。


3-3-8

築80年という古いお宅は、
天井が高くて、吹き抜けの開放感。

夏は涼しく、心地よいそう。


3-3-9

急な階段が懐かしい。

子どもの頃に住んでいた家も
こんな風に急な階段でした。
楽しかったな。



そうそう、書き忘れていた。
それほど昔でない昔の話(昭和30-40??)、

金城山の5合目に
桑畑があったそうです。

貴重な平地には
田んぼや畑があるから
桑を作付けする場所がない。

だから、牛や馬がのぼれる限界の
5合目に開墾したそうです。

巨木に成長しているという桑、
再び葉っぱを取りにいく人は
これから二度と現れないでしょう。

季節になれば、とても大きな
桑イチゴがなっているとか…

それはきっと、
動物たちのご馳走に。

土地を使わせてもらった
人間たちの置き土産かな。


衣をまかなう。

4-11

ハッカスプレーの納品へ
来ていただいたついでに、
お爺ちゃんの昔話を聞く。


スプレーの使い方補足。

→飲み物に一吹きでハッカ飲料。
 乗りものやお酒の酔いをやわらげ、胃もたれにも。

→凝っていたい筋肉、関節に
 シュッとして軽くもみ込む。

 肩こりがヒドい時にやってみたら、
 確かに楽になりました。
 ハッカには血流を改善する薬効が。


4-12****

少なくとも戦前までは、

南魚沼市の、城内から五日町にかけて
苧畑(おばたけ)があって、
青苧(あおそ)が栽培されていた。

座機で織って、
仕上る着物はどれも無地。

布の本や織り子さんからの話で、

越後上布の原材料の青苧は、
全て、福島県昭和村産だと
聞いていたから、

からむし畑は無いものだったと
思い込んでいた。


4-12

これまで買い出してきた
麻着物の中でも、

ざっくり太い糸で織られた布が
たぶん、自家用自家生産のもの。


4-12*

爺ちゃんが子どもの頃の行動範囲で
おしなべて作られていたならば、

おそらくもっと広い地域に、
青苧畑は広がっていたんだろうなー

4-12***

何千年も前から
そのときいちばん身近な素材で、
〔衣〕は賄われてきた。

自分たちの普段着物は、
素材から織りまで。


4-12*****

爺ちゃんは4歳にして
麻の皮をはぐ仕事を
手伝っていたそうです。


子どもも大切な即戦力。
それからわずか、半世紀。


4-12**

働き方や作り方、
どんな品物に囲まれるのか、
(近年は石油系素材がすごい)

目まぐるしい変化を、
古道具たちがぼそぼそ静かに
語っている。


4-12++

お孫さんが作ってくれたと言う
大きなパウンドケーキを
持参してくださった方。

洋服は自分で仕立てている。

ハギレを活かした
のし目柄のパッチワークが
おしゃれ。

お孫さん3人の子育てをして、
今はひ孫ちゃんを見て。
私がスキーを教えたのよ〜と笑う。


4-12+

時おりフキミソとか手作りの
美味しい差し入れがやってくるのは、
日々の特典、ボーナスかもしれない。

こちらからは、飲み物と
たまーに夕飯プレート。

(引っ越し先ではそこまで
おもてなしできないかも…)

余震に揺られながら、
食べる。話す。

中越地震からの経験か(?)
震度4はあんまり動じなくなったね、とか。
ゾワッとするし、泣きたくなっても。


4-12******

100年200年も先輩な
道具や布があらわしてかたるのは、

たくさん手をかけて
身体と力を使ったけれど、

とれるものは自分たちでわりと、
まかなえるよ…


まだしばらく、全ては見渡せないな。
夜がふけてく。



布のいのちと美・藤布のこと。

医師、鎌田 實さんの記事。

以下抜粋(3月15日 (火) 07時18分付)



当たり前に生活していないと、
不安に負けてしまう。

みんなでこの国を防衛しないといけない。

経済活動を停めたり、
あるいはティッシュを買い占めたりと
過剰な行動にでるのではなく、

当たり前の生活をし、
物資がほかの人にもいきわたるように
考えるべきだ。
 
計画停電により、電車が止まったり、
本数が少なくなっているが、

こんなときに経済活動を停滞させる方向に
すすめるようなことはやめたほうがいい。

むしろ、電車や工場に電力を送り、
東京より西側の経済を停滞させないことと、

それに国民が理解を示すことが
大事なのではないか。

そして、西側の地域は、
東北、関東の被災した地域の復興を
支援していく必要がある。

そういう意味では、
政府や東京電力、原子力安全・保安院の
腑抜けた対応を批判してきたが、

これだけの状況が起きてきた今では、
ふだん決して使わない
「がんばれ」という言葉を使いたい。

がんばれ、政府。
がんばれ、東京電力。

これまで批判してきたのは、
この国を守るために
しっかりしてもらいたいからである。

日本だけでなく
地球環境を守るため、
彼らにがんばってもらうしかない。

渾身の力をこめて、
ぜったいに負けないでほしい。

応援している。

*抜粋終わり



3-15---

一番最初に実害を及ぼすのは、
パニック・混乱だと思われる…

発電所内だけでなく、
危険の残る被災地で
活動にあたっている方々へ、

感謝と無事をお祈りして、
生活を続けます。


南魚沼市も明日から
計画停電が始まる予定で、

放射線測定ポストも
設置されたとか。

(震源地の方の痛みには、
とうてい及ばないけれど)

ちょっとずつ皆で痛み分け。
皆でやると大きい。



ほんとにそうだなぁ。



新潟県立歴史博物館(長岡市)の
企画展のシンポジウムと
展示のレポートを。

*レジュメや会場のボードから一部引用。

チラシ

【布のいのちと美 展山崎光子コレクションのまなざし

*21日(月・祝)が最終日。

3-15

会場に入ってすぐ、
ご自由に着て下さい、のボロ

3-15*

山に生えている藤ツルを糸にして
織り上げる藤布。

漁村では仕事着として
年間通して重宝されました。

◎村上市沿岸部では
 昔から行われていた
 製塩と繋がりが深い。

    ↓

 山へ焚き付けの木
(小楢などの雑木・塩木と呼んだ)
 を取りにいく際に、

〔藪をこいでも引っかからず切れず〕さらに、

〔夏は涼しく、べとつかず、冬の雪はさらりと落と〕した。

3-15**

↑藤布の織り機。

◎日露戦争が始まる頃まで、
 船乗りが漁に出る際には
 ほとんどの人が着ていた。

◎山の木を使いすぎるというので
 塩焼きは18世紀末に中止されたものの、
 藤布は織られ続けた。

    ↓

 山裾には耕作地が少なく、
 山へ行けば材料の藤には事欠かず、

 あえて麻を生産することも
 なかったのだろう。

3-15***

◎江戸時代に普及した木綿も、
 綿が育たなかった東北地方では
 古布でも貴重品で、

 北前船が着古した木綿地を
 遠くから運んで来た。

 タテ糸に藤糸、
 ヨコ糸にクサ(古手木綿を裂いたもの)と
 藤糸を交互に織り込んだものを用い、

〔クサオツヅレ〕と呼ばれる
 裂き織り布を織った。

これは防寒着で、オシャレ着。


◎時代によって、

 帆船の帆布を再利用した
〔ワタオツヅレ〕(昭和・戦中 戦後)、

 藤糸を芯にして
 役場から払い下げられた古紙を
 巻き付けて横糸に用いた
 カラフルな
〔カミオツヅレ〕(昭和)

 などが作られている。

3-15+++


★山崎氏のまとめの言葉。

【新たな素材を得てつくられた
カミオツヅレやクサオツヅレには、

防寒という機能を越えた、
非日常な遊び心も、垣間見られる。

これらの、女の生活に
根ざした美的表現は、

各地域の民族服飾にも
共通するものであり、

それが、
地域の民族服飾を産み、
支え、停滞残存させ、

それぞれの衣文化領域を
形成していったのではないだろうか。

長い年月をかけて、
慈しみ育まれてきた民族服飾は、

近代化の荒波によって瞬く間に
押し流されてしまった。

しかし、民族服飾は、
古着の循環型再利用、
廃物利用などに見られるように、

現代社会に示唆するものを、
内在させているのでは
ないだろうか】

3-15++

循環型再利用の美!
実際こんなシャツがあったら、
むしろ着たいです…



本日は主に藤布のこと。

昭和30年代まで
実用されていたことが
素晴らしい。

日を分けてあと1回、書きます。



ギャラリー沙蔵さんの
閉店後に長居して、
偏よりトークm(_ _)m 

3-15++++

写真集【墟】を持ってる方(←私の本棚にもある)と、

城や寺社仏閣を愛する方。
(頭がリアルちょんまげ。
運転免許証が偽物にしか見えない)

廃道、隧道、古城、廃屋、廃線など、
(心霊スポット以外)集団で巡ってみたい。

3-15-

埋め木が可愛いテーブル。
床の間だったそうな。

3-15+++++

可愛い対の、狛ニャンコ。

ひな壇の一番上に飾るそうで、
…居ましたっけ。



メモ。



【一宮神社・農具市(節季市)に関する聞き取り】

(*昭和4年生まれ・城内集落・男性)

大里の農具市の日は、
3月12日と決まっていて、

その日は十二講(じゅうにこう)とも
呼ばれました。

3-19-

★2/15に「若木むかえ」といって、
 山へ入り水草の木の枝を伐採した。

 3/11の晩に雪の台を作り、
 そこに枝を刺した。

★秋のうちから切っておいた竹に、
 なった縄ヒモを張り、弓を作る。

 3/12の朝一番、まだ薄暗いうちに、
 雪の上に作った的に向かって、
 集中して竹の矢を射る。

 次に空へ向かって、
 以下の歌を歌いながら、
 もう一度矢を放った。

♪天上(てんじょ)っくり 山っ栗

 天竺(天神かも知れない)の やすがべべ(女性器の隠語だそうな)

 すってんとん(我が家の父と母は、すととんとん、と覚えていた)

3-15-+

★このあと、城内集落から片道3時間半、
 一宮神社へ歩いていった。

★1枚30銭のきれいな多色刷りの
 絵紙(えがみ:着飾った女性の絵が描かれていたそうだ)を
 各人が買って帰り、

 村へ戻ってから
 集会場所に張り出して、

 誰々の買ってきた絵はいいなとか、
 品評会をして楽しんだ。

(この賑やかな集まりが十二講?)

※これは戦前の話です。
 戦後には、とんとやらなくなったとか。

3-15-+-+

父と母が同じ歌を知ってたのが、びっくり。
鳥追いの歌だと勘違いしていたようです。

検索してみると、
小出町出身の方の記録が。

♪テッチョウクリカナックリ、
 烏のメダクダマに当たるように、
 スットントンガトン

↑両親の覚えていた歌詞は
 こちらに近いかな。

フローーー

12-19+

父と手塩さんの散歩。
本日も晴天なり。



紙とペン。
マウスとキーボードより
安心できる触り心地。

頭の中にあるものが、
肌を通して、
ノートの上に落ちてくる。

人によってはそれが
ミシンや針や、走ることや。

12-19*



83歳のお婆ちゃんの話。

アメリカとの戦争が始まったとき、
女学校の木の廊下で、

私たちも頑張りましょうね、
勝たなくちゃ、敵国はオニよ!と
若々しく盛り上がった。

女学校は当初1クラスが
40人程だったのに、
疎開してくる人が増えて
50人くらいになった。

出征したワカモノたちが
英霊となって戻ってくると、

六日町の八幡神社で
合同の慰霊祭を行った。

学校からは代表して
4年生が参列したのだけれど、
いつも歌った歌がある。

♪海ゆかば、みずく(水浮く?) かばね(屍)
山ゆかば、草むす かばね(屍)

おおきみ(天皇)の、
へ(辺り)にこそ(ためにこそ)
死なめ(死になさい)

かえり見はせじ(ふりかえることなく)

~♪

(書き取りしながら、正直、
怖い歌詞だと思った…)

しっかりとしたメロディーで。

何度も歌ったから、
はっきり覚えていると言う。

だけれど、戦後に歌ったことは
ないそうだ(65年以上ぶり!)。

教育の大切さを(恐ろしさも)、
つくづく感じると言う。

軍国少女は戦後教育になじみ、
終戦の翌年には花嫁となった。

物の全くない時代だったから、

嫁入り道具にパラソル(と、ハイカラな
言い方をお母様はされていたそう)が
ないのは不便だろうと、

どこかでお米と交換して、
傘を手に入れてくれた。

12-19++

そんな大正生まれの
お母様の遺した品も、
お婆ちゃんの青春時代の着物と
一緒にやってきた。

記憶は、歌にも依る。

流れ出す瞬間に立ち会って、
引き取る布たちを
どんな風に活かしてゆこう。

今はまだ、純粋に素材として
作り手さんに手渡してる。だけ。

12-19

おまけで頂いた、母校の記念誌。

灰色のじゅずの実は
昔はそこいら中にあって、
十六玉と呼んでたとか。



12年に1度の大祭、
卯年祭りが来年に迫って、
お知らせが届き始めました。

12-19**

*クリックで拡大します。

中之島地区は4月からスタート。

12年前の様子は宝林寺さんで
写真集を見せていただきました。

撮影に行きたいなぁ…
でも、ゴールデンウイークだ…

12-19***

早川地区は8月です。

雲洞地区も同時期で、
そちらの規模はかなり
大きいらしい。

なかなか遭遇できない
お祭りなので(なんせ卯年だけ…)、
見る価値アリです。



12-19+++

お正月の色。

12-19-

近所のお婆ちゃんが、
あれが豆柿の木だよ、と教えてくれた。

ご近所に何本も生えているのに
知らなかったのです。
(今は渋柿ばかりだから)

青いうちに収穫して潰してから
水と一緒に樽の中につけておくと、
数ヶ月後には柿渋が完成します。

住まい方のお手本・昔語り。

11-8**

まだ余韻…
打ち上げ時にきいた話のメモ。

→テンジンさんは基本的に独学で音楽を学んだ。
 あのチベットの弦楽器も、
 独自の引き方(かき鳴らす)のようです。

→現在、奥さんの故郷オーストラリアと、
 ヒマラヤ越えした後に暮らした
 インドのダラムシャラを往復の生活。

→ダイライラマ法王に教えを頂く為に、
 このあと大阪へ向かう(過去三回、直接にお会いしている)。



11-8***

冬前に火鉢はいかがですか〜。大正期位。
完品3,500円 ヒビ入り1,000円(←睡蓮鉢に使えます)

11-8*

伊万里のソバ猪口。幕末〜明治、
完品で数が揃っています。

11-8

器はひとつだけでも販売可。

11-10*****

以前なら買い取りしなかった、
戦後の布(合繊、ウールが多め…)。

着物リメイクやパッチワークなどしている方に、
この時代の着物がドサーーーーと
集まったりもしますが、

全ての方にそんなルートが
引かれてる訳ではないし…

ひとつひとつ見れば
とても魅力的な素材なので、
ネットでもまとめて出してみましょうか。



11-10******

季節の味覚、菊の花。
ぜんぶむしって、甘酢に浸しました。
大好物。

子どものころも、お爺ちゃんが育てた菊が
頻繁に食卓に上っていました。

更に大量のレンコンがやってきたので、
明日はレンコンと菊のチラシ寿司か。



朝イチに買い出し。

11-10**

母屋は築200年とのこと。

玄関が昭和30年代。
この時代の作りもかわいい。杉板とか。
住まうのは、80代のお婆ちゃん一人。

留守宅だと分かって危ないと言われ、
行く先を黒板に書いていた黒板は
もう使われていない。

11-10***

広いお家だけれど、
古さに反してとてもきれい。

家の前をのっぺりとコンクリートで
固めてしまう人が多いのに、
見た目が良くないからと
砂利を敷き詰めた。

ぼこぼこしてホウキが使えないので、
隙間に映えてくる草を抜き、
落ちてくる葉っぱを丁寧に拾って
きれいにしている。

心地よさを受け取るために、
手間ひまをかけておられた。

11-10

初めて間近で見ました。
のろしの筒!450年くらい前のものかな。

蔵の中から出したら、
竹のタガが何本も外れてしまったそう。

坂戸山から六万騎山まで、煙で情報を繋いだらしい。

11-10*

火縄銃。これも400年以上前か〜。

1601年、米沢に移封となった上杉家に
ついてゆく事になったご先祖様。

いつ戻るのか分からないので、
実家では長女が婿をとって家督を継いだ。

そのうち米沢から帰還した際に、
持ち帰ってきたのが、この火縄銃。

屋号を〈隠居〉として
あたらしく居をかまえました。
(次男以降の場合は屋号が〈新宅〉となる)

農地解放の前までは地主さんだったそうな。
家の歴史、面白い。



お婆ちゃんはとてもオシャレな方で、
手作りの腕前もすばらしかった。

(メリンス着物で作った、お正月にしか使わない
パッチワークのこたつがけとか)

立派な床柱が古いわりに、
やけにきれいだなと思ったら、

旦那さんが元気だった頃に、2人して
苛性ソーダでピカピカに磨いたのだとか。

釘を使っていない立派な天井板も
真っ黒だったので、
全てに番号を振って外して洗ってから戻したら、
素人なので隙間が…

屋根裏の茅葺きについた煤が時おり、
板と板の間からパラパラと落ちてくる。

旦那さんを亡くされてから、
20年近くたつ。

自分の方がどんどん年を取るから、
もう年を重ねられない夫と
親子みたいになるのがイヤ。だって。

女心だなぁ…



コタツに入って、
昔語りをしていただけた。



11-10****

昔はとなり村へ出るのに、迂回路を通って数時間。
(もちろん徒歩。現在はトンネルが通っている)

山菜採りの道が出来ていたので、
若い人たちは山越えをした。日常的に。



かやぶき屋根を20年前に
トタンで囲った。

その前は雪掘りがたいへん。
命綱をつけて、てっぺんから掘っていく。
(下から掘るといっきに崩れて危険)

くるくるとリンゴむきのように、均等に。
掘り方が偏ると、屋根が傾いてしまう。



女学校に入って2年生の時、
昭和19年に学徒動員。
柿崎で旋盤工をやった。

学校に通えているときだって、
畑で食料を作ったり
勉強どころではなかったけれど。

2年生のとき、学校の授業から
敵国の言葉として英語が消えた。



教員が兵隊としてとられて
不足していたので、

小千谷にいき6ヶ月の教育を受ければ
教員免許が貰えた。

資格を取った直後に終戦。

9月から教壇に立つが、まず最初に
教科書に墨を塗る事から始まった。

修身や歴史の教科書なんて、
ほとんど何も文字が読めないほど。

先生になる為の学校でも
戦時下の教育法を習っていたので、
180度ちがうことを教えなくてはいけない。



戦時中はお米は供出して、
白米だけのご飯は、盆と正月のみ。

戦前から、
いるご米の粉で作った
〈やくもち〉というおだんごが
定番の朝食だったけれど、

戦中は配給がとうとう
どんぐりの粉になった。

調味料もろくになかったので、
作っただんごは、美味しくなかった。
(縄文時代の暮らしだ。栄養あるのね…)

布も配給制になり、
チケットを持ってとりにいくと、
家族に手ぬぐいが数枚。
着物なんて作れなかった。

(てぬぐいだけで作られた襦袢を
何度か見た事があります…)

育ち盛りだったから、
四六時中、お腹がすいていた。

小千谷時代、実家から送られてくる
炒り豆やあずきをポリポリ食べるのが
美味しかった。


11-10+

話が分かりやすくて
質問へのレスポンスも早い、
いつ何があったかをしっかり
覚えているお婆ちゃんだった。

買い出しにいくと(時間に余裕があれば)
昔話も聞いてくるようにしている。

お爺ちゃんお婆ちゃんたちは
いつでもおいでと言って下さるけれど、
なかなか再訪できていない。

その時が初対面で、そのまま
今生の別れになっているかも…

(数年後に近所の蔵を壊すよ〜と連絡が来て、
再びお会いできるような事もあります)

ご縁は不思議。
また、お話を聴きに行こう。
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