本日は、個人的な
書き留め更新です。

保育園に娘を
迎えに行くと、
「ねぇ、ママはどうして
お仕事するの?」
一番最初に
思いついた答えは、
「そうだねぇ。
昨日、そらちゃんが食べた
プリッツ。
あれを買うときに、
お金と交換したでしょう。

ママがお仕事すると、
お金をもらえるんだ。
お金はいろんなものと
交換できるんだよ。
ヒーターの灯油も
お金で買うよ。
だから、働いているんだよ」
「ふーん」

*雲海モーニング。
後山トンネルの近く、
誰も通らない場所を見つけた。
次の日のお迎えで再び、
「ねぇ、ママはどうして
お仕事してるの?」
…お金、じゃないな。
一つ先まで考え直す。

「ママが古いものを売ると、
喜ぶ人がいるんだ。
捨てられちゃう
古いものも、
ママが仕事すると
助かるから喜ぶよ。
そうやって、
誰かが喜ぶと
ママは生きてけるんだよ。

*冬季閉鎖していて
入れなかった魚沼スカイライン手前。
うっすらと黄金の雲海、
見えるでしょうか…
そらちゃんも
そのうちお仕事するけど、
自分のやれることで
誰かが喜ぶことを、
仕事にすればいいよ」
「ふーん、そうかぁ」

*藁細工のヒンメリが
西日の中で揺れてた日
辛さ=仕事だった。
20代の頃はそう
教えられることが多かった。

*真弓の木の紅葉が美しい
また別の日に
娘が言う。
眉を少し八の字にして
微笑みを浮かべて、
「ママ〜。
そらちゃんが死んだら
また新しい
そらちゃんを産んでね」
「お別れなんてやだよ!」
「ごめんね。
もう、お別れなんだ」

少し困ったような
穏やかな笑顔。
背筋がゾワゾワ、
想像するだけで怖くて
泣けてくる。
2年と9か月しか
一緒にいなくても、
これほど
つながっている感覚が
あるのに。

「このそらちゃんが死んだら、
次に生まれてくる子は
もう違う子なんだよ。
そらちゃんは、
そらちゃん一人だけなんだよ。
代わりなんて居ないんだよ」
「違うよ。
ぜーんぶが、
そらちゃんなんだよ」

…。
つい最近まで
彼女には境界がなくて、
本当に世界と一つで、
外界と自我が
分離していなかったんだ。
自分の体がどこまでかを、
やっと習得したくらい。
その感覚が残っていると、
お別れはそれほど
悲しいことじゃないんだ。

*実家近くの鎮守様で
農機具小屋が解体中、
寂しい。
無視されても
一人遊びしてる男の子に
話しかけるのは、
誰とでもすぐ遊び始めるのは、
境界線が曖昧だから。

*坂戸にある
テイクアウト専門のピザ屋
ピッツァタルトさんの熱々で、
簡単夕ご飯だった日。
この話には
すぐオチがついて、
「それじゃ、今日は
悲しいけれどもうお別れか…
明日のそらちゃんに
会いたいな。
明日また、
会ってくれるかい?」
「うん!いいとも!」
ただの言葉遊び。

*近くのお店も開拓中。
世界と自分が
一つだった感覚から
いつの間にか分離して、
寂しさを知ったけれど、
目の前のモノや人の
全てが自分でもある、
と考えると、
自分一人の世界が
急に広がって、
ずっと優しくなれる。

子供達から
教えられることが、
たくさんあります。
書き留め更新です。

保育園に娘を
迎えに行くと、
「ねぇ、ママはどうして
お仕事するの?」
一番最初に
思いついた答えは、
「そうだねぇ。
昨日、そらちゃんが食べた
プリッツ。
あれを買うときに、
お金と交換したでしょう。

ママがお仕事すると、
お金をもらえるんだ。
お金はいろんなものと
交換できるんだよ。
ヒーターの灯油も
お金で買うよ。
だから、働いているんだよ」
「ふーん」

*雲海モーニング。
後山トンネルの近く、
誰も通らない場所を見つけた。
次の日のお迎えで再び、
「ねぇ、ママはどうして
お仕事してるの?」
…お金、じゃないな。
一つ先まで考え直す。

「ママが古いものを売ると、
喜ぶ人がいるんだ。
捨てられちゃう
古いものも、
ママが仕事すると
助かるから喜ぶよ。
そうやって、
誰かが喜ぶと
ママは生きてけるんだよ。

*冬季閉鎖していて
入れなかった魚沼スカイライン手前。
うっすらと黄金の雲海、
見えるでしょうか…
そらちゃんも
そのうちお仕事するけど、
自分のやれることで
誰かが喜ぶことを、
仕事にすればいいよ」
「ふーん、そうかぁ」

*藁細工のヒンメリが
西日の中で揺れてた日
辛さ=仕事だった。
20代の頃はそう
教えられることが多かった。

*真弓の木の紅葉が美しい
また別の日に
娘が言う。
眉を少し八の字にして
微笑みを浮かべて、
「ママ〜。
そらちゃんが死んだら
また新しい
そらちゃんを産んでね」
「お別れなんてやだよ!」
「ごめんね。
もう、お別れなんだ」

少し困ったような
穏やかな笑顔。
背筋がゾワゾワ、
想像するだけで怖くて
泣けてくる。
2年と9か月しか
一緒にいなくても、
これほど
つながっている感覚が
あるのに。

「このそらちゃんが死んだら、
次に生まれてくる子は
もう違う子なんだよ。
そらちゃんは、
そらちゃん一人だけなんだよ。
代わりなんて居ないんだよ」
「違うよ。
ぜーんぶが、
そらちゃんなんだよ」

…。
つい最近まで
彼女には境界がなくて、
本当に世界と一つで、
外界と自我が
分離していなかったんだ。
自分の体がどこまでかを、
やっと習得したくらい。
その感覚が残っていると、
お別れはそれほど
悲しいことじゃないんだ。

*実家近くの鎮守様で
農機具小屋が解体中、
寂しい。
無視されても
一人遊びしてる男の子に
話しかけるのは、
誰とでもすぐ遊び始めるのは、
境界線が曖昧だから。

*坂戸にある
テイクアウト専門のピザ屋
ピッツァタルトさんの熱々で、
簡単夕ご飯だった日。
この話には
すぐオチがついて、
「それじゃ、今日は
悲しいけれどもうお別れか…
明日のそらちゃんに
会いたいな。
明日また、
会ってくれるかい?」
「うん!いいとも!」
ただの言葉遊び。

*近くのお店も開拓中。
世界と自分が
一つだった感覚から
いつの間にか分離して、
寂しさを知ったけれど、
目の前のモノや人の
全てが自分でもある、
と考えると、
自分一人の世界が
急に広がって、
ずっと優しくなれる。

子供達から
教えられることが、
たくさんあります。
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