北京からのお客様です。
個人的ボロコレクションから、
一着進呈。
彼がこの着物を纏い、
妻有の地で踊る姿を、
この夏に見られるかも知れません。
写真で表現をする
アーティストさんは、
次々とアイディアを形にして、
とても楽しそう。
最近、色んな人の表情に
こんなキラメキを見ることが
増えたような気がします。
春だから、
ということもあるでしょう。
縮こまっていたものがほぐれたり、
元々、解放されていた人ならば、
さらに、ね。
ロンロンさんとインリーさんご夫妻。
今年の夏に開催される
3年に1度の里山アートフェスティバル、
大地の芸術祭参加アーティストさん。
十日町市の名ヶ山にある
元小学校の木造校舎に、
写真家5組の作品が
展示されるそうです。
目の前で構想やタイトルが
練られてゆく様子は
スピード感に溢れていて、
このフローこそが自然と踊る
芸術の姿そのもの!
雪の季節に芽吹いたものが、
夏の盛りにどんな花を咲かせるのか。
目の当たりにしよう。
とても楽しみ。
業務連絡。
夕ご飯にポテトカレー。
スパイスセットが届いています。
煎り立て挽き立て
自家焙煎のコーヒーセット
(3杯分個包で280円)も。
66歳になってもこの色を着たい!
顔だってブログに出していいわー、と
元気なお客様。
年齢ってなんだろう。
『気』が満ちている方は
それが滞っている若者と比べたら、
何歳になっていようと
ずっと若く見えたりする…
77歳のお知り合いお2人が
たまたま居合わせたり、
十日町からこんにちわとか
今日のお茶の間。
古道具屋だったり
整体屋だったり、
井戸端だったり。
昭和30年の悲恋話とか
たいへんだった農業のこと…
面白い話を一つシェア。
今日はお彼岸の入りだったので、
それにまつわる風習。
塩沢の中之島集落では、
遠いところから家に戻ってくる
ご先祖様たちは疲れているはず、と、
沸かし立ての
お風呂の蓋を開けておいて、
先に入浴していただくそう。
『おれたちが飯喰う間、
仏様に入っていてもらおうそ(もらおうよ)』
と、薪でお湯を沸かし、
いそいそ蓋を開けに行く…
見送られた人たちだって
そうやってたまに、
現世に暮らす人と
ともに生きてゆけた。
いい風習だなぁと思いました。
お茶の間、夜の部に向けて。
色んな大人がいるのぅ。
それは素敵なことねぇ。
大盤振る舞いです、
大沢和紙のEさん…
製本ワークショップに使いなさい、
と手漉き紙を追加でたくさん
いただきました。
ひとまずこれは…
無償で準備をして下さった
先生役のreikoさんへお裾分け予定。
『商品として売らせて下さいよー』
『だめですぅー』
とは言っても
地元産の楮を用いた手漉き紙は
本当にうつくしいものだから、
具体的に商品化できないものか、
妄想してみよう。
消しゴムハンコでポンポン。
いつの間にやら
ワークショップが始まりました…
もうひとつの課外授業。
町歩きと観光について。
5年位前から自分の中の
テーマになっているのですが、
いつも一人で動こうとするから
(当たり前ながら)
広がらなかったり負担を感じて、
続けられませんでした。
新しい目線で見直せば…
商店街のアーケードの奥に
こんなお家があったっけ??
見えてすら、いなかったんだ。
ここから再始動。
十数年前に入ったかなぁ…
と、記憶もおぼろな大衆食堂さんを
たずねてみたりして。
ずっとここにある、ってことは。
何かがある。
少なくとも、厨房の中に立つ
お父さんとお母さんの物語は
とても長ーいものでしょう。
親子丼*豚肉、とか。
メニューが楽しい。
価格も安い!
子どもの頃、両親に連れられて
入ったお店の記憶は、
おしなべてこんな雰囲気…
味も思い出せるくらい。
現代の子どもたちなら、
ファストフード店や
ファミレスなのかな。
10年後もまだこの場所で、
お父さんはテレビを見ていて、
注文を受けたら
フライパンを振るのかしら。
想像するだけで、うぅー…。
人の数だけ物語があるのは、
まぎれもなく、ほんとうのこと。
●
今年はもう少し素直に、
自然のリズムから学ぼう、と
思い始めた矢先に読んだ本から。
『収穫期』
多くの人が認めたがらない
生命の不変の原理がある。
植えたものが実を結べば、
それはおのとずとさらに
多くの実を生み出すことを、
自然はいつもくりかえし
実証してきた。
ところが、
トマトの種を蒔いたのに、
収穫期になると、
タマネギが取れると
思い込んでいる人がいるものだ。
わたしも悪の種を蒔いたことを
知っていながら、
収穫期になると、
単に気休めから、
善の実を期待したことが
何度もあった。
へたないいわけになるけれど、
何事も実行しなければ、
ものを生み出せないことを
まったく知らなかったわけでも、
意識しないようにしてきた
わけでもない。
何年も自然の摂理を
つぶさに見て、
自分が見てきたものを
認める勇気をもつようになったいま、
わたしは争いたくないときは、
努めて平和の種を蒔くようにしている。
人を裏切ったりうそをついたり
したくなければ、
忠実や正直の種を
蒔くよう心がけている。
もちろん、わたしの蒔いた種が
必ずしも耕作に適した土地に落ちて、
根付き、成長するという
確証はない。
もしかしたら
わたしよりも先に
だれかがやってきて、
わたしが蒔いた種とは
異なる種を
蒔いていったかもしれない。
そこまではわからないけれど、
それでも自然の成り行きに
ただ任せっぱなしにしておかないで、
たとえば、
植える種の品種や潜在力、
適する自然環境などについて
いろいろ気を配れば、
当然、期待通りのものを
収穫することができるだろう。
それだけは、
わたしにもよくわかっている。
*(『わたしの旅に荷物はもういらない/
マヤ・アンジェロウ』より)
同じ本の中からもう一つ、
一部抜粋。
『若さへの励まし』
わたしたちは若くて、
からだはしなやかだった。
わたしたちはデューク・エリントンの
『キャラバン』という曲に合わせて踊る。
(暗がりの中で出番を待っていると)
そんなとき、いつもかならず
女性たちがわたしのからだに触れた。
そしてそのとき、かならず
そっと何かささやいてくれた。
『だいじょうぶよ、ハニー。
とってもかわいいわよ。
さぁ、ステージに出て、
あのシェイクダンスをするのよ』
『私も若いころはいつも
あのダンスをしてたのよ。
さあ、がんばってね』
するとわたしは元気が出てきて、
出番が待ちきれないほどだった。
やっと合図があると、
わたしはステージに飛び出し、
いつも一生懸命踊った。
いまにして思えば、
あの女性たちが
わたしのからだに触れたのは、
性的なものというよりも、
むしろ精神的なものだった。
わたしを元気づけることで、
自分たちもわたしといっしょに
ダンスをしている気分に
なっていたのだ。
自分たちも若いころ
存分に楽しんだので、
わたしの若さを羨ましいとは
思わなかったのだ。
若者の言動にもどかしさを
感じる大人が多い。
そんな大人は、若者が成長するのを
望んでいるだけでなく、
老成するのを望んでいるのである。
しかもいますぐに。
だから、せっかちになって、
つい子どもをたしなめたり、
非難したり、説教するのだ。
「静かにしなさい」
「すわりなさい」
「どうしていつもからだをくねくねするのよ」
「じっとしていなさい」
知ってか知らずか、
これまで歩んできた人生に
強い不満を持ち、
青春を無為に過ごしたことを
悔いている人ほど、
このような説教をしたくなるものだ。
●
何歳からでも
恥ずかしがらなければ、
わたしの青春は今ですよーと
言えるのかもしれません。
年老いてから、
みずみずしい彼女や彼らに触れて
『だいじょうぶよ、ハニー』って
明るいステージに押し出したい。
そんな実をつける花の種を、
植えておいたら、きっといつか。